「良い学校」に通えば人生安泰?

受験シーズンになると、学校や周囲の同級生たちの動向や、「この学校はどれくらいの成績で入れるのだろうか」などということが気になるものです。それは子ども本人だけではなく、家族ぐるみで気になりだすものなのです。

その中で、「良い学校」、「今の成績では手が届かない学校」という存在がちらつくものです。どこどこの誰々はその「良い学校」が志望校で、今の成績であれば簡単に入れるだろうということや、自分の子どもは偏差値があといくつ足りないからテストの平均点がどれだけ上がらなければいけないなどと、今必要なこと、今足りないことに目が行くものです。

進学のための受験は、日本は特に奥が不快ものになっています。勉学を習得するための方法も多岐に渡ります。生徒本人の意志とは関係なく、塾をお膳立てしたり、勉強しやすい環境を作ってあげたり、日本の保護者は大変です。一般的には、子どもを育てている間にそれは「二度」来ます。一度目は高校受験です。始まるのはだいたい中学3年生の夏です。そこからの半年近くは、高校進学に専念することになるのです。二度目は大学受験です。これは高校3年生の春には始まるものでしょう。そこから一年間は、「人生でもっとも勉強する時期」を過ごすのです。

それはあくまでの進学のための「過程」であり、入学のための試験で子ども本人のすべてが計れるわけでもありません。それでわかるのはあくまでも「学力」です。そこに「過程」は一切汲み取られません。もともと勉強が得意だったので、特に頑張ることなくクリアしてしまった子どもも、勉強が苦手だったのに一生懸命頑張って成績を上げ、試験に挑み、見事合格した、という子ども、同じように扱われるのです。その過程は本人と、それに関わった人としか知らないことにはなります。

ただ、子どもの人生はそこで終わりではありません。新しい学校、新しい境遇で何を学ぶのか、頑張って合格した先でどのようなことをしたいのか、そしてその先、成長した自分はどのようなカタチで社会に貢献したいのかということがあります。成長すれば、あとは本人の責任です。頑張っていい学校に入っても、やりたいことが別にあればそれらの過程をムダにすることもあるでしょう。逆にそうして勝ち得た「学歴」が対して世の中では通用しないと感じることもあるでしょう。

偏差値の高い学校に入学できたということは、ひとつの「要素」でしかありません。良い学校に入れば人間性が磨かれるわけではありません。より勉学に励むことができる環境、より自分がしたいこと、知りたいこと、学びたいことが実現できる環境を手に入れられるだけです。それが将来どう活きるのか、ではなく「どう活かすのか」ということが大切です。良い学校に合格することはひとつの目標ではあったけれど、それで人生が決まるわけではないのです。長い受験戦争で、じつは保護者もそれを忘れてしまうことが多いのです。自分の子どもを良い学校に入学させたいのは何のためだったか、思い起こしてみてください。ただ周囲が騒ぐから流された、ということであれば、「意味もなく」受験を乗り越えたということになってしまわないでしょうか。「ゴール」は入学ではないということを常に意識しておきたいものです。