子どもにかける期待とプレッシャー

私たち大人は「次世代」を育てる責任があります。いくら少子化でも、子どもがいないわけではないのです。私たちの子どもが一人でもいる限り、その子を育て、未来の日本を担ってもらわなければいけないのです。

その「想い」は、ストレートに「期待」となって現れます。「日本の将来」などと大それた考えではなくても、自分の子どもには健やかに育ってほしい、お金に不自由しない暮らしを送ってほしい、そのように考えるのは「当たり前」のことです。親にとっては、「子どものこと」は自分のことと同様に重要なのです。だから受験に必死です。世間で必要とされていること、「良い学校」に対する現実以上の信頼、他の子どもよりも優れていることに対する優越感とそれに対する願望があるのです。

そして、「子どもの数が減っている」ということは、それらの期待の濃度は高まるばかりなのです。兄弟姉妹がいれば、個々の子どもの特性なども見出だせるでしょう。それぞれがそれぞれの道を歩んでいくことに対して、寛容になれるかもしれません。ですが、ただ一人の子ども対してはそうもいかないかもしれません。自分たちの唯一の子、次もなにもない、唯一の受験、大切に育てたいものです。

昔よりも今の方が「過保護」になったかどうか、それはわかりません。各家庭によります。親の方針によります。ですが、間違いない事実として子どもの数は減っています。親が子を大切に思うのは当たり前のことですが、その愛情をかけるべき対象が減っているのです。大人の数は変わらず、子どもの数が減っているという状況、さらに高齢化により、親の親、つまり祖父母も健在であることが多いため、自然とひとりの子どもにかけられる期待は大きくなっていくのです。

より特別な存在になった子どもは、家庭によっては甘やかされたり、逆に厳しすぎたり、もしかすると極端な環境に置かれているのかもしれません。ただ、それらの「子どもの環境の問題」が顕在化したのは最近になってからのことで、実は同じ事は昔から起こっていたはずです。それは「家庭それぞれの育て方」があるからです。人はみな違う価値観を持っているからです。それでも「環境が悪い」「指導が悪い」と社会問題として取り上げられるのは、やはりそのようにして育てた「人の力」というものが国際的な基準では下がってきているからかもしれません。

そのような問題を抱えながら、大人たちが四の五の言う間にも、子どもは成長しているのを忘れてはいけません。社会のせいにするのも、環境のせいにするのも自由ですが、子どもと共に成長すべき保護者は、そのようなことは関係なく、子どもを健やかに育てる必要があるのです。テストの点数も、友達との関係も、将来の夢も、すべては保護者の責任であることを忘れてはいけません。子どもに「自分次第なんだぞ」といったところで、子どもはよりプレッシャーを感じるだけです。「自分がなりたいようになる」と考えるのも早計です。「どうなりたいか」がわかるほど社会に対する情報を持っていないのですから。子どもが何を感じ、何をやりたいのか、何が足りないのか、いち早く見ぬいてあげなければ、子どもの実際とあなたの言うことに差が出てしまうかもしないのです。