勉強させられるのではなく、「する」ということ

人はやらされるよりも「やる」ほうが効率がいいのです。「やらされる」ということは受け身です。「やる」ということは能動的です。仕事でもなんでも、勉強でもなんでも、それは同じです。「やる」ほうが良いのです。

何かを自分から「やる」ためには、「動機」が必要です。大人になれば、それはシンプルです。「生きる」ためです。自分が生きるために必要なことが沢山あるのです。その「生きる方法」は誰かが示してくれるものではありません。自分で見つける必要があるのです。月々いくら稼ぐのか、どのような生活を送るのか、その責任はすべて自分にあります。自分が決める自分の道、誰も教えてくれない方法です。そのために私たちは日々学ぶのです。もちろん、仕事においても言われたことしかしないということも可能です。それはその人の「働き方」です。そのスタンスが業務に影響あるようなものであれば、上司や同僚から注意がはいることは間違いありませんが、とにかく、「本人次第」ということです。

「責任」は「動機」になり得るのですが、学生時代にその「責任」を感じることはなかなか難しいものです。テストの点数が変わったところで、家庭の収入が変わるわけではないのです。自分の将来でさえ、そのテストの点数でどう左右されるのかわからないのです。子どもながらに感じていることがあります。それは私たちも感じていることです。それは「学校の勉強か将来役に立つのか」ということです。勉強ができれば営業成績が上がるのか、勉強ができればやりたい仕事ができるのかということです。

そのような問いかけは、学校の先生や両親に対して発せられます。ですが、実は問題はそこではないのです。進学するために勉強が必要だからするのです。社会で必要かどうかは、就く仕事によります。将来学校の先生や塾の講師になるのであれば、いま躓いている「勉強」はそのまま商売道具になるのです。それでは、子どもに「じゃあ将来何になるのか決めているのか」と聞いてみればいいでしょう。「将来、将来」などという子どもに限って、ビジョンはありません。それは私たち大人の責任です。いつか働くことになるという実感がないのかもしれません。

自分の将来を自分で考えている子どもほど、能動的です。それは「目的が明確」だからです。「今」がその過程にあるということを知っているからです。そのような実感は、ある瞬間に得る「気づき」がなければ持つことができないものなのです。自分から学べる人になるためには、「目的」が必要なのです。家庭では子どもの将来について本人と話す機会などはあまり持てないものです。ですが、将来のビジョンを共有することで、「なぜ今勉強するのか」ということに対して答えを持つことができるかもしれません。

いつかは成長して、自分の足で立つのです。自分で稼ぐのです。その日のために、じっくり子どもと話し合うことも必要かもしれません。ただ「言う」だけでは、子どもは自分から勉強しようなどとは思いません。そこには多少なりとも「理由」が必要なのです。ただ成績を追い求めるのではなく、その先に何があるのかということを共有したいものです。それが「自ら進んで」という動機になるかもしれません。