文科省が掲げる「生きるちから」とは何なのか

文科省が先般掲げた「学習指導要領」のテーマとして、「生きる力」というものがありました。これは実に世相を表したものであるといえるでしょう。育った子どもたちが自分のチカラで生きることは、あらゆる意味で難しくなっているのです。

どのような生き方も自由ではあります。ただ、昨今はその「生きるために最低限必要なこと」ですら放棄せざるを得ない状況が続いているのです。それは「就職難」をはじめとした社会的な現象です。人生のゴールは就職ではありません。むしろ自分の道を切り開くためのスタートラインと言ってもいいでしょう。そのようなスタートラインにすら、立てない人がたくさんいます。それは「怠けている」わけではないのかもしれません。

それでは、受験していい学校に入ればそのスタートラインに立ちやすくなるのかというと、そういうわけでもなかったりするのです。良い学校に入って、勉強して卒業したとしても、そのまま社会で即戦力になるかどうかはわかりません。ただ、社会で認められるのは誰もが入りづらい難関校を突破し、立派に卒業したという実績です。その「事実」を得るために、人は沢山の努力をして成長を遂げているものなのです。

大学の4年間は長いものです。人が変わるためには十分な期間といっていいでしょう。大学に通っている間に自分がやりたいことを見出したり、新しい道を見つけたり、やがて人生を左右するような瞬間もあるかもしれません。ですが、どのような学生生活を送ろうとそれは自由なのです。大学の4年間をモラトリアムとして過ごした結果、「そろそろ就職活動の時期である」として人と同様に就職活動をはじめ、人と同様に面接に通い、ただなんとなく違和感をずっと持っている。結果、どの会社からも内定をもらえなかったりするということもあるかもしれません。その時、人は自分が過ごした4年間が意味のないものだったのかと落胆することになります。学業をサボっていたわけではなく、課題はしっかりとこなしてきた。ただ「覇気」がなく、それ以上はなにも探求する意欲がなかったということです。

そのような学生が増えているようです。受験のときにあんなに頑張ったのに、努力して掴んだ合格であるのに、その後はなんだか色あせてしまった。気づけばいつの間にか成人していて、就職の時期になってしまっていた。結局自分は何がやりたいのかわからないままでいる、ということです。これが「生きる力」が足りないという状態です。

「生きる力」とは、経済的にも環境的にも自分の足で自立して生きていくチカラのことです。課題は出来る。言われたことも出来る。ただなんとなく、それ以上はしたくないし、イメードも沸かない。そのような若者が増えているようです。学生時代の学業でそれが備わるわけではありません。ただ、今は「情報」が多すぎるのです。なんでも知りたいことは調べればすぐにわかってしまう状況があるのです。そのようなことが、人を無気力にさせるのかもしれません。インターネットで見ただけで、「なるほど」と感じることが出来てしまっているのです。ただ、実際に触れてみないとわからないことの方が多いはずなのですが、情報に触れただけで「探究心」が失せてしまっているのでしょう。

そうです。必要なのは「自分で探っていく探究心」なのです。