子どもはサボるかもしれない

人は「責任」で動くものかもしれません。私たちは多少体調が悪くても、多少天気が悪くても、「仕事」だけは欠かしません。それは日々の取り組みが自分の「糧」になるということもありますが、なによりもそれは自分が遂行しなくてはいけないことだからです。

自分しかできない、自分に与えられたミッション、他の誰でもない、自分が行う必要があるということを、私たちは「責任」と呼びます。それは気がつけば自分にのしかかっているミッションであり、社会的にどうしても逃げられない境遇にいるのです。自分が負っている責任を、わざわざ他の人が無償で行なってくれるわけではなく、自分が負っている責任は自分のステータスでもあり、そこで給与を得る最大の理由にもなっているからです。これは簡単に人から人に手渡るようなものではなく、ずっと自分がしがみつくべき、そして担うべき役割なのです。

だから私たちはサボりません。もちろん、中にはサボる人もいます。ですがそれは社会的にいえば怠け者であり、落伍者であり、決して出世することのない人です。ただ日々楽をして過ごそうという人は、その日暮らしのそこそこの給与だけをもらって満足しているか、自分の「責任」に関して考えたこともない、考えようともしない人なのです。

ただ、「勉強」している段階の子どもには「責任」はありません

毎日仕事をしなければ生きていけないということもなく、ただ保護者に庇護され飢えることもない、朝起きて、夜寝るまで、すべての時間をだらけてしまっても別に構わないのです。そこにあるのは自分の保護者の提言と、がんばる同輩、逆に怠ける同輩の存在です。自分の意志ひとつで生活が変わってしまうのが、子どもです。そこにはもちろん保護者の指導もあります。学校、地域の指導もあります。ですが、それらを聞く聞かないは本人の意志なのです。

別に子ども時代を怠けたからといって、大人になって重責を担えなくなってしまうとは言いません。人生のどの段階で変化するのか、それはわからないのです。子ども時代に勉強ができれば収入が安定するわけではなく、子ども時代に不まじめだから大人になっても怠けるというわけではありません。人はどこでどう変わるかわからないのです。自分が成長した過程を考えてみましょう。どこでどう変化したのか、いつ何を感じ、どのようにして今子どもを育てているのか、思い返してみましょう。子ども時代の経験がすべてムダだったということはないでしょう。ですが、それが「すべて」ということでもないでしょう。

子どもはサボります。それは「生きる」ということか保証されているからでもあります。自分が子どもだったころ、楽をしようとか、学校に行きたくないとか、そのようなことは多々あったのではないでしょうか。「将来のため」といわれても、自分の将来など明確に見えなかったはずです。同輩が遊んでいれば遊びたくなり、同輩が努力していれば自分もそうしようと感じたのではないでしょうか。

同じことです。時代は違っても、子どもが感じることはそれと同じなのです。それを全否定することはできませんが、放置しておくこともできません。「育てる」とは、「導く」ことです。保護者が導かなければ、子どもはどこに向かっていいのかわからないのです。