教科書も進化するということ

人は社会に出るまでに覚えることが沢山あります。「勉強」とは体系立てて物事を覚える事ですが、すべての学習において「その先」に何があるのかということは示されていません。

学生時代には「それが何を意味するのか」などわからないまま、「学ぶ」ことになるのです。その過程として「試験」があり、「受験」があり、その成績を競うことでモチベーションを上げたり、逆に「自分には出来ない」と諦めてしまったりするのでしょう。「なぜ学ぶか」ということに対して私たちは答えを持っていません。ただ、「学べないとどうなるのか」ということに対してはある程度の答えが出ているかもしれません。それは学びたくても学べない発展途上国の状況で察することができるのではないでしょうか。文字も読めず、書けず、社会生活に対して支障が出るレベルです。

それは極論だとしても、グローバル化が達成された産業界では社員が全員英語を話すことができるアジア企業の躍進などが顕著です。未だに通訳を必要とする私たちとは大違いです。確実に私たちの総体的な能力として、「英語力」が足りないのは間違いありません。そのようなことを解決できるのも「教育」です。

私たちが学んできた「教科書」は、私たちの学習の基本であり、基盤です。その教科書は年々進化していくものなのです。それは前述したように、「英語力が弱い、特にコミュニケーションができず、意味のないものになっている」という状況を打開するため、英語でコミュニケーションできるような人物を育てるためのカリキュラム、それに則った教科書に作り変えられたり、数学が難解過ぎると捉えられたらカリキュラムから一部オミットされたりするものです。

難しいもので、今のカリキュラムが育てるのは20年後の「大人」です。これから先20年、日本がどのような状況にあるのかは誰もわからないでしょう。どのような産業が新しく起こっているか、誰も読めないのです。アジアの諸国が、英語が得意であることも偶然かもしれません。そして日本の教育がそれを凌ぐ英語力を子どもに与えることも、実は簡単かもしれません。ですが、それだけでは今の状況は変わらないかもしれません。

私たちは「勤勉」です。細かい仕事もきっちりとこなす誠実な国民性です。技術を突き詰めることが得意で、その信頼できる仕事は国際的にも認められていました。反面、贅沢な国であるが故「コスト」を節減することができなかったのです。内需と外需というものがありますが、海外製品に押されて両方ともシェアを奪われてしまうような状態です。名だたるメーカーは赤字の連続で、どうにかして経営を立てなおそうと躍起になっています。

この状態は、今まで日本が施してきた教育の結果かもしれません。フタをあけてみなければ、それが正解なのか不正解なのか、わからないのです。教育だけの問題ではないかもしれません。さまざまな要因が複雑に絡み合った結果かもしれません。ただ、「教育」というのは私たちの原点であり、習得したことは私たちの「武器」です。教育を改革することで将来の国のチカラを改革することができるのです。現在わかっていることは、「私たちは海外とコミュニケーションを取りづらい」という現実です。それを克服することで新しい局面も見えてくるかもしれません。