学び方が変わっても、真理はひとつ

物事を効率的に学ぶために「学習法」というものがあります。学んだことを確かめるために「試験」というものがあります。ある意味「入学試験」とは、それまで通っていた学校で何か学び忘れたことはないかどうかを確かめるためのものであるのかもしれません。

何十年も「受験」、「学歴」という言葉が騒がれて来ました。子どもはいつかそのような局面に直面することになります。そのような試練を通過して、成長し、大人になっていくのです。最終的には就職をして、一つの道で自分の生計を立てなければいけません。「お金をもらう」ということはシビアなことですし、「稼ぐ」ということは容易なことではありません。学校にしても、会社にしても、社会の縮図です。その中に独自の文化や慣習をはらみ、「成功するための勝ちパターン」をある程度蓄積しているものです。

転職してみればわかることなのですが、ひとつの会社で大切にされていたことが、他の会社ではどうでも良いとされている場合があります。それは些細なことです。「朝は定時の一時間前に出る」であるとか、「残業は一切しない」ということもそれに含まれるでしょう。それらひとつひとつの決まりは、「その組織」だけの決まりであって、実は他の組織に移ってみるとどうでも良いとされる場合が多いのです。それはそれぞれの組織が大切にしていることであって、その組織に所属する以上、順守した方が良いことではあります。

ですが、所属が変わったとしても、「自分」という人間が変わるわけではないのです。

学校もひとつの社会であるといっても良いかもしれません。その中で形成される人格、もともと持ち合わせた正確こそが、「自分」なのです。「学ぶ」ことが本分の学生時代に「自信」を持つためには、その社会の中で認められる存在でいることが大切なのかもしれません。そのひとつの指標が「成績」です。「別に勉強ができなくても人として立派に成長すればいい」と願う親もいるでしょう。ですが、本人にとっては「何が立派」なのかがわかりません。どうやれば立派になれるのか、人に対して胸を張れるのか、わかりません。

「勉強はできなくてもいい」ということは、一種の「逃げ」であるのです。

勉強することが学生の本分であり、将来のための叡智の素地を養っている状態なのです。「勉強できなくてもいい」わけがありません。「自分らしく」の素地としての、学習があるのです。学校の授業に追いつけない、または足りないという人が多いですが、そのような人が「学習塾」に通います。学習塾はてっとり早くテストの点数を上げるための便利屋ではありません。学習を通じて本人の「核」が形成されていくものです。学習とは「人格」をつくり上げることでもあるのです。「成績」は単純な「数字」ではありません。その学校で何を吸収したのかという「指標」です。学生である以上、絶対に軽視できないことです。

学習塾は学校でオブラートに包まれた「教育」をより具体化し、より明快に生徒に伝えることかできる唯一の場です。「人格形成」や「集団行動」など、学校ではさまざまなことを生徒に体験させる必要があります。ですが、その大半の時間は「学習」に充てられていて、結局のところテストや入試で問われるのもその部分なのです。