私たちの生きている「日本」という国では、誰もが「学ぶ権利」を持っています。小学校から中学校までは「義務教育」として、誰もが学校で学ぶことになります。

やがて自分の生き方を見出し、自分が学びたいこと、歩みたい道に踏み出して行くのですが、高校、大学それぞれに「入試」というイベントが待っています。高校に通ったことのある人であれば誰もが記憶に残っているのではないでしょうか。学校の成績に加え、実地での試験の結果が入学に関係するあのプレッシャーは、現代人であれば誰もが経験している通過儀礼といってもいいでしょう。それは一年かけて学ぶということであり、人生の新しい節目としての「入学」を迎えるための定められた試練です。誰もが「受験」のために勉強し、誰もが受験のために心身ともに悩まされたことがあるはずです。

ただ勉強を学ぶだけではなく、ただ公式や英単語を学ぶだけではなく、受験には「苦難を乗り越える」という一種の「成長」の証としての意味があるのです。私たちはただ暗記すればいいだけではありません。受験を通じて「社会」に対してひとつ耐性を身につけるのです。それは「よりできる者が報われる」という、「能力主義」のようなものです。

勉強ができれば社会に出て満足な仕事ができるわけではありません。決して、それは関係がありません。ただ、勉強の果てにある受験を通じて、自分の「将来」を感じることはできます。良い学校に入れば良い会社に入れるわけでもありません。社会はそれほど甘くはないのです。一生懸命勉強して、死ぬ気で努力して良い大学に入ったとしても、モラトリアとして4年間遊んで過ごせば、その先の就職戦争では「怠けた人間」と見抜かれるのです。仕事では大いに「パーソナリティ」が見られるものです。仕事には多少のルールはあっても、「絶対」ということはありません。どのようにして会社に、社会に貢献するのかは「その人次第」なのです。

そのような「人」が重視される世の中で、「その人」を鍛えるための儀式が受験でもあります。ただ漫然と過ごしているだけでは決して通過できない試験、それを通じて私たちは「学ぶ」ということの大切さを痛感することができるのです。一年以上かけて準備してきたことが花開いた瞬間、報われた瞬間を、喜びと共に迎えることで、私たちは「準備する」ということの大切さを学ぶのです。「学ぶ」ということには額面以上の気づきがあるものです。

できることであれば誰もが避けたいと考える「受験」ですが、確実に受験を通じて成長があるものです。そのような受験をアシストするために「学習塾」という存在があります。ただ学校で学ぶだけでは追いつくことができない「勉強」をするところです。ただ「勉強をする」と聞くとつまらない場所に感じてしまうかもしれませんが、私たちは学習塾で同輩と競い、自分の目的の学校に近づくための訓練を受けているのです。この頃の記憶は多感な10代の思い出としてはつまらないものかもしれません。ですが、同じ目標を掲げる同輩と競い合うこと、また励まし合うこと、受験を通じて見えた社会や大人の存在などに、私たちは多大な影響を受けているものなのです。