「覚える」だけではダメな時代へ

これまでの日本の教育は、「覚える」ということが主体にあったようです。英単語、構文、公式、問題の解き方、年表、元素記号、化合物の名前、その他諸々、子どもに覚えさせることが主体のカリキュラムだったのです。

それでも「良かった」のです。覚えることに長けた私たち日本人は勤勉で、そのようにして育てられた人は各分野で世界に誇る働きを見せました。「良い物は日本製」という海外での評判を勝ち得たのです。ですから、その頃に「成功した」学習方法、人の育て方は長く日本の教育に影響を及ぼしていたのです。ですが、それも諸外国、特に発展途上と呼ばれた国の躍進や、日本と同等の技術で、それなのに安いコストでの仕事を実現する国の台頭により、真のグローバル化が果たされつつあることにより、「このままではいけないのではないか」という風潮が増しています。

産業を動かしたり、国を発展させたりするのは「人」です。「教育」はその「人」を育てることです。私たちの数だけ、この国には可能性があるということですが、どうにも昨今では特に「日本の技術」が最先端ではないこと、そして「コストが安くて良質なもの」を諸外国に提供されていることなどから、私たちの存在感は国際的な産業で「稀薄」になっているようです。私たちの何が足りなくて諸外国に負けつつあるのか、「コスト」は私たちの給与に相当します。そもそもの生活レベルが違えば、また社会構造が違えば、その点で劣るのは仕方がないかしれません。ですが、それだけが敗因ではありません。

例えば、私たちは総体的に「英語が苦手」です。「覚える科目」として長く定着してきた英語は、テストの点が良くても外国人とコミュニケーションをとるまでには至っていません。私たちは「なぜ必修科目に英語があるのか」を考えることなく、ただ与えられるがままに「覚える英語」の点数を競ってきたのです。その結果、構文は知っていても実際には話せないという人がほとんどです。今の時代でも、「英語」は日本において特殊なスキルなのです。

ですが、日本で言う義務教育を完了すれば英語が話せるということになればどうでしょうか。そのような国が数多くあるとしたらどうでしょうか。英語でのコミュニケーションという意味では、私たちは劣ってしまっているのではないでしょうか。ただ学校を卒業するだけで、英語が話せるようになっていれば、その国の人は一般的な教育を受けさえすればすぐにグローバルに対応できる人材なのです。通訳もなにも必要なく、ただ学校を卒業すれば世界中の人とコミュニケーションが取れるのです。

覚えている単語数が多くても、いくらまじめにテストの点数を追いかけていても、話せなければ結局、英語を学んだ意味がないのではないでしょうか。そのような観点から、現在ではさまざまな科目において到達目標が試行錯誤されているのです。より実践的に、より試行的に学ぶようになることで、「戦力」としての私たちを磨いていく教育にシフトしつつあるのです。「覚える」から「活かせる」という具合に、世の中の教育は生まれ変わりつつあるのです。「今」正しいこと、今点数をとれることが、数年後には通用しなくなっているかもしれません。