「道」など存在ない

人には決まったルートがあるということは、まやかしです。人生が安泰になるルートがあるなどと、考えてはいけません。可能性は無限にあります。道など存在しないのです。

どのような学校でどのようなことを学び、どのような人物になるか。それは誰もわからないのです。自分でさえも、予測できないのです。ただいえることは、「希望」を捨てた時点でそこには「惰性」しか残らないということです。惰性しか残らないということは、「ただ生きているだけ」ということになります。私たちの本質は、それを許すものではありません。「ただ生きているだけでは足りない」のが私たちであり、ひとりひとりのその気持ちが今の世の中、時代を切り開いてきたのです。

子どもに語ってあげたいのは、子どもである「今」は無限の可能性を秘めているということです。大きな会社の歯車になって働くのも、自分が新しく会社を起して、新しい産業を築きあげるのも、それは「自由」ということです。だからこそ、その「可能性を広げる」のが「勉強」であるということをわかってもらいたいのです。高校受験を控えたくらいの歳の頃であれば、「なぜ」という「理由」を求めることになります。「自分」がなぜ勉強するのか、疑いを持つ子どもほど、将来に対して敏感なのです。ただ、その「視野」は大人ほど広くはないものです。

幼少期から何かに特化していて、「道」を自分で見出しているような子どもであれば、「今」に対してさまざまな「理由」を持っていることでしょう。ですが、一般的な、ごく普通の子どもであればそうはいきません。自分がなぜこんなことをしているのか、自分は何になりたいのか、「進路」に迷うものなのです。その時に、「その先の可能性」に対して理解させてあげることができるのは大人しかいません。しかも、親身になって語ってあげることができるのはごく身近な大人、「保護者」しかいないのです。

「道」を決めつけてただ「勉強しろ」と押し付けることは間違いです。「なぜ」という疑問に答えてあげることが必要です。「理由」は「動機」になります。「動機」は「チカラ」になります。子どもが自分で自分の進むべき「方向」を見いだすことが、そのまま「チカラ」になるのです。それはあくまでも「方向」です。「あの山の向こうに行きたい」と感じることです。そのためのルートはいくつもあります。手段もいくつもあります。ですが、それを「あっちに行け。そのためにはこの道しかない」と決めつけるのは子どもにとっては不幸なのです。

自分で考える。自分で決める。今は、答えはないかもしれないけれど、何か惹かれる方向がある。その程度でもいいのです。その程度でも自分で決めることができるようになっていれば、学業も邁進できるのです。学校での勉強はなんのためなのか、授業はなんのためなのか、短絡的な答えではないのです。それは「過程」でしかないこと。その先に自分の世界があること、そしてそれは自分で「創る」ものであるということを、自分で気がつけるようにしてあげたいものです。それが保護者の責任です。ただ作られた道を示すのは間違っているのです。遠回りでも、自分で自分の進むべき方向がわかる方がいいのです。