学校の授業だけでは足りない?

物事の「理解度」というものは人によって違います。物覚えが早い人もいれば、何度同じことを繰り返してもそれを覚えるのが苦手な人もいます。「学校」では、そのようなさまざまな人に対して授業を行います。

人によって苦手な科目があります。数学が得意であったり、社会が得意であったりするのです。それはどのような原因であれ「得手不得手」ということになります。ひとつのクラスにはそのような得手不得手を持ったさまざまな人が集まっています。学校ではどのような生徒に対しても同じ教育を受けさせる責任があります。だから人によっては「授業が遅い」と感じたり、「授業についていけない」と感じたりするものでしょう。それは「どちらが偉い」ということではないのです。勉強ができるから「偉い」、勉強が苦手だから「偉くない」などということは決してありません。

ただ、科目ごとに理解度を計るための「成績」がつくものです。それは同輩と競うためではなく、自分としてその科目に対してどれだけ理解を持っているのかという指標です。「人としての成績表」ではなく、あくまでも勉学に対しての指標です。この指標が、時に親や本人を惑わせることになります。「成績が悪いといけない」という盲目的な思い込みが、本人に対して思いがけないプレッシャーを与えることがあります。それはある意味日本の家庭では「当たり前」とされてきた光景です。10代の頃から「どのような道に進みたいのか」ということが明白になっている人間はそういません。部活動に励み、有り余る若さを勉強と青春につぎ込みながら、私たちは嫌でも通過しなければいけない「受験」の存在を忘れることはありませんでした。

そのような私たちの生活の中で、「学校」は中心的な存在でした。学校で学んでいる身、学生という身分ほど、本人にとってはもどかしいものはないかもしれません。そんな学校での教育は、定められたカリキュラムを完全に消化することが大前提になっています。一回の授業が50分間であるのは、私たちの集中力を気にしてのことです。「もう塾で学んだ」と感じたり、「先週休んだからわからないな」と感じたり、人によってその感じ方はさまざまです。それはあくまでも「全体」を見渡してバランスが取られたものであり、「個人」に寄ったものではありません。だから人によって感じ方がバラバラなのです。

効率的に学ぶためには、個人の「リズム」を重視する必要があります。自分が学びやすいスピード、自分の理解度が深い部分はよりスピーディに、わかり辛い部分は立ち止まって繰り返すことが必要です。そのような学び方は「学習塾」でしか実現できないものです。学校ではあくまでもカリキュラムを消化するだけ、全員に対して「学んでもらうこと」を主眼に置いているのです。ですから、個人に寄った都合の良い学び方を実践するためには、やはり学校の外で学ぶ必要があるのです。そして、それはある意味「当たり前」のことになってしまっているために、過当競争が生じているのが「受験」なのです。優秀な人は探せばいくらでもいるものですが、そのような人と正面から戦うのが「受験」なのです。

学校の勉強だけでこの受験戦争に挑むのは、いささか危険かもしれません。